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第1035話

Author: 宮サトリ
「もし聞きたくないなら、私たち、戻りましょう」

弥生は彼に長く見つめられたあと、結局背を向けて戻ろうとした。

だがその瞬間、瑛介が彼女の手を引き止めた。

「......分かった。君が言いたいなら言えばいい」

ついに瑛介は折れ、彼女の話を聞く覚悟をした。

本当は聞きたくない。怒りも抑えられない。

それでも、彼女がわざわざ自分の電話に合わせて外に出てきたのだから、言いたいことがあるのは確かだ。

弥生は細い眉を寄せた。

「あなたが嫌なら、言わなくてもいいのよ」

その言葉のすぐあと、彼に手を強く握られた。

「いいから。君が話したいなら話せ。できるだけ怒らないようにする。これでいいか?」

ぱちぱちと瞬きをし、弥生は何も言わずに彼を見つめた。

黙り込む彼女に、瑛介は苦笑しながら指で彼女の頬をつまんだ。

「さあ、早く言えよ。君の口から出る話が、本当にあいつをかばう言い訳になるのか、僕も聞いてみたい」

彼の仕草や言葉に、弥生の胸の奥がふっと柔らかくなった。

本当は聞きたくないはずなのに、怒りを押し殺して、自分のために耳を傾けようとしてくれているという意思が伝わってきた。

弥生は衝動的に彼の腰へ手を伸ばし、そのまま勢いよく彼の胸へ飛び込んだ。

思いもよらず、弥生が自分から抱き寄ってきたことで、瑛介の冷えた心は一瞬で溶け、呆然とその場に立ち尽くした。

弥生は彼の胸に顔を埋めながら話した。

「これから言うことは、彼をかばうためじゃないの。ただ事実を伝えたいだけ。聞いたうえでどうするかはあなたが決めればいい。私は口を出さない」

「記憶を失ってからは、ずっと彼が看病してくれていたの。でもあなたはきっと、『彼が私を脅して連れ去らなければ、そもそも記憶を失うこともなかった。だから看病するのは当然だ』と思うのでしょう。そうね、記憶喪失は彼のせいにすればいいわ」

「でも、栄養失調になったのは、私自身のせいなの」

弥生は、本当は隠しておきたかった。

でも、目覚めてから何度も考え直し、さらに食事のときの様子を瑛介に気づかれてしまった。もう隠す意味はない。

「あなたの人たちが私を連れ出したあと......私は、生きる気力を失ってしまったの」

彼女が飛び込んできたことで和らいでいた瑛介の心は、その言葉を聞いた瞬間、一気に奈落に落ちた。

細長い瞳が危うく細め
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